[おくりもののある景色]無用の用

 手紙は、こうでありたい。
 とくに、なんの関係もない第三者が読んでも、心たのしい、ほほえましい、あるいは心がやすらぐような手紙こそ、最上の手紙である。つきつめていけば、“無用の用”に帰着する。


『手紙読本』(江國滋 編)所収「書きたい手紙・読みたい手紙」より


賀状から恋文まで、さまざまな手紙が収録されているこの本、
福武文庫で絶版なのですが、他人の手紙のなんとおもしろいことよ。
しかも書いたのは、漱石に太宰、谷崎、安吾など、日本文学史に名高い
文人たちなのであります。
上記引用は編者、江國滋の弁ですが、中には「書きたくない手紙」や
「読みたくない手紙」の章もあり、恋文は「読みたくない手紙」の章に
入っている。

 恋文というものは「書くもの」もしくは「もらうもの」であって、「読むもの」ではない、というのが私の確信である。
 だってそうではないか。大谷崎といわれる天下の文豪が、惚れた女(しかも人妻)を「御主人様」と呼び、おのれを「侍女」と認めたり、天下の歌よみが「ああ恋しくてもう駄目です」だの「あゝ恋しいひと、にくらしい人」だのと、臆面もなく書きつらねたり、ああはずかしい、というしかない。


同「読みたくない手紙」より


そもそも手紙とは、特定の個人や団体とのやりとりを前提にしているわけで、
受取人以外の他人が手紙を読むことを念頭に恋文を書くひとは…
意外といるかもしれない。まあ、でも恋文が手紙の中でも特に
個人的なものであることにちがいはないだろう。
斎藤茂吉永井ふさ子に宛てて書いた手紙を、必ず焼いてほしいと
頼んでおり、ふさ子も最初の30通ほどは焼いているが、それ以降は
保管され、その結果こうして公表されて、しまって、いる。
この恋文が本当に、なんというか本当にはげしくて、見境がなくて
すごい。
読んでいて顔が火照ってくるようだけれど、おそらく同等の情熱を
作歌にも向けていたはずで、はずかしくもやはりちょっとうたれる。
その人の生の熱量に。


さて、では「こうであってほしい」手紙とはどんなものなのか。
ひとつ、短い手紙をご紹介します。


 きのうヤルートへつくとすぐ小さな船(ボンボンボンといって走るやつ)にのりかえてべつの島に行きました。そのとちうでいるかが三十ぴきばかり、ぼくらの船をとりまいて、きょうそうするように、およぎました。あたまを出したり、しっぽを出したりしておよぎます。中には空中にとびあがるものもあります。ぼくから十メートルくらいはなれた所で三匹そろって一どにとびました。いるかはとてもふざけんぼですよ。



同「書きたい手紙・読みたい手紙」所収「中島敦から中島桓(たけし)へ」

※文中「やつ」とはじめの「いるか」に傍点、「とちう」とあとの「いるか」に傍線あり