誕生日の喪失

 それにしても、すべての日常から外れて、期待と不安に満ちた一日を、私はどのようにして失っていったのだろうか。誕生日がもたらす新鮮な軋みを、いつからのっぺりとした日々の波に返してしまったのだろうか。娘の様子を見ていて最初に思ったのは、そんな誕生日の喪失であった。夢見ていた特別の一日の崩壊は、自身の失態によってもたらされるのでも、子どもっぽさに突然嫌気がさす時期と連動している成長過程によって生じるのでもなく、いつのまにか訪れたとしか言いようがない地滑りのごときものなのだ。


回送電車』所収「誕生日について」(堀江敏幸)より

大人は言います。
誕生日なんて少しもうれしくない、と。
うれしくないどころか、自分の誕生日を忘れる人さえいます。



たしかに、誕生日だからっていつもの仕事がなくなるわけは
ないし、あなたの誕生日を知らないひとびとの中にあっては、
特別な日と自覚することもないでしょう。



でもはじめからそうだったのでしょうか。
つまり、おさないころからあなたにとって誕生日は、少しも
特別ではなかったのか、くりかえしの日々のなかで忘れて
しまうようなものだったのか、ということ。



この短い随筆のなかで堀江さんは、リルケの『マルテの手記』を
引用しながら、誕生日の崩壊は、そつなく誕生日を準備しようとする
大人たちの、数々の失敗を目にすることによってなされたのかも
しれない、とつづけます。

子どもは祝われることをやめて、うまく祝わせてやることに心を
くだくようになる。


(同上)


ただ、そうした感覚は誕生日に限ったことではなく、はじめの
引用で堀江さんが言っている「成長過程」と同じで、子どもから
大人と呼ばれる年齢に、ゆるやかに(知らないうちに)移行する
時間の内に習得する、ごく一般の自意識なのではないかと
思うのです。



やはり、失われた誕生日については「いつのまにか訪れたと
しか言いようがない地滑りのごときもの」という、どうにも
あいまいで、困ってしまうような表現がぴったりくる気がします。



ではなぜ、あれほどに胸をわくわくさせたわたしたちの
「誕生日」は、失われてしまったのでしょう?



わたしは、かつての誕生日のあまやかな記憶が、誕生日当日の
そのひとの態度を、受身にしてしまうせいではないかと考えました。
「プレゼントもらって」
「ごちそうつくってもらえて」
「おめでとうって言ってもらえて」
それはそれは王様気分のたのしい誕生日。
しーしーはーはー(つまようじ)。



毎日毎日だれかのために走りつづけることを余儀なくされて
くたびれた「大人」は、特別なその日にきらきらした、
いいものがやってくるのを、ついつい待ってしまう。
あのころのように。



でも、あなたをとりまく世界から見れば、今日は昨日の
次の日で明日の前の日、ただそれだけだったりするわけです。
だから待てども待てども、いいものはやってこない。
会いたいひとはそこにはいない。



もしあなたが日常にすこしくたびれていて、誕生日くらい
いい気分になりたい、と思うのなら。
わがままになっちゃう、というのはいかがでしょう。
見たいものを、見に行く。
言いたいことを、言いに行く。
欲しいものを、手にしに行く。
会いたいひとに、会いに行く。
そこで誰かに、どうしたの? とびっくりされたらあなたは
胸をはって言うのです。



「今日、誕生日なんです、わたし」
って。



いかがですか。



回送電車

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